自分の人生を哲学しよう

2019年も最後の日、私にとって学生運動とは何だったのかを引き続き哲学する。
あの時代、私と同じようにそれまでの学生運動に疑問を感じ、大学を中退、あるいは卒業後、地域活動で社会変革を目指し、今も志を貫いている人たちが大勢いると思う。

 1975年の入学式では総長あいさつの後、赤ヘルの学生たちが演壇にならび、演説するのに驚いた。毎日授業に出ると、まず、クラス入りと称して赤ヘルの学生たちが一席話すのが日課だった。クラスの自治会役員を決めるのになかなかなり手がいなくて、時間ばかりがたつのが面倒で「私がやります」と立候補したのが事の始まり。2歳上の同級生といろんな会合に出るようになり、彼女がいろいろ物知りなのに感心しながら、赤ヘル運動の端っこに参加するようになった。
 住民が大学の研究室の毒物垂れ流しに抗議した事件を知り、愕然とし、それから水俣などの公害、スモンなどの薬害に興味をもち、反医学会総会に参加したり、全国薬学生ゼミナールや関西薬害問題研究会に出入りするようになった。同じクラスの薬学生に薬害を学ぼうと呼びかけたけれど、「薬剤師になってからでいい」と反応はなかったので、一人でチラシをまいたりして行動していた。
 真如堂脇の下宿から熊野寮に引っ越し、授業をさぼって自由を満喫しながら、勉強会などに参加していた。成人式の時は反薬害集会に参加し、造影剤の副作用の英語論文の報告をしていた。大阪環状線で「成人式なんてくだらん」と思いながら、晴れ着を眺めたことを覚えている。(つづく)

コメントは停止中です。