尾久本土初空襲の3つの特徴とは・・

尾久本土初空襲 3つの特徴
(1942年4月18日ドーリットル空襲初弾)
①70年間「隠されていた」日本初空襲
2000年から荒川国際平和展実行委員会が毎年慰霊のつどいを開催し、情報を収集。初空襲当時「話してはならぬ」と教員や警察に厳しくいわれた葛藤を乗り越えて2008年体験者の田村正彦さんが名乗り出て、体験を語り始めた。
言論出版集会結社等臨時取締法1941年(昭和16年)12月20日施行
第17条   時局ニ關シ造言飛語ヲ爲シタル者ハ二年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ二千圓以下ノ罰金ニ處ス
第18条   時局ニ關シ人心ヲ惑亂スベキ事項ヲ流布シタル者ハ一年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ千圓以下ノ罰金ニ處ス
 
②軍司令部は「9機を撃墜」とうそを発表
真珠湾攻撃から4か月後であったので、多くの人々は日本軍の訓練だと勘違いして、米軍機に手を振ったとの記録が残っている。また、翌日の新聞は、「9機を撃墜わが損害軽微」といつわりの報道を行った。
 
③B25 16機のドーリットル空襲による日本の被害は全国で死者87人他
   参加した米軍兵士80人のうち、1人は死亡、8人が日本軍捕虜となり、処刑3人、病死4人である。B25が不時着した中国の日本占領地で、探索のため数百人の中国人が殺されたという。また、このような攻撃の再発防止のために、陸軍は浙かん作戦を展開、731部隊の細菌作戦も含め、中国人死者は25万人とされる。

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