自分史

私の願い
女と男の双子として生まれ
「男と女、逆だったらよかったのに」と
何度言われたことか。
女らしさ、男らしさって何だろう。
人はそれぞれ違うもの、
みんな、ちがうことこそ素晴らしい。

18の時、薬害スモンの被害者と出会った。
治療のために飲んだ薬で
体を蝕まれた人たち、痺れる体をおして、
製薬会社や厚生省の閉ざされた門の前に
立っていた。
人の命よりも金儲けを優先させる
社会の仕組みを知った。

22で、重度障害者と出会った。
地域で生きていきたいという
強い意志を知った。
介助者として過ごした15年、
社会全体で支えなければと
心に刻んだ。

42で議員になって16年間、
様々な市民活動に取り組みながら
議会で発言してきた。
今、91歳の認知症の母と暮らしながら
認知症になっても楽しく暮らせる街づくりのために
力を尽くしたい。
格差がひろがる社会に抗し、
こどもの貧困の連鎖を食い止めたい。
差別のない、非暴力で、平和な世界を目指し、
地域での活動をつなげていきたい。

リーフ2015オモテ

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1956年 大阪府八尾市生まれ。
8歳から奈良県橿原市、18歳から京都、22歳から東京で暮らす。
民間企業に20年勤務。市民運動・障がい者の介助ボランティアを担う。
元荒川区公立保育園父母の会連絡会会長。
1999年~2019年4月荒川区議会議員5期20年

(自分史1)1956年 瀬野喜四郎と克子の長女として大阪府八尾市に生まれる 
双子の弟が四男であることは、18歳のときにボーイフレンドから知らされた。勝手に私の戸籍調査や近所に聞き込みをしたとのこと。医者の息子が、結婚したいと親に言ったらしく、無断で探偵に調査させたというので、即刻、さよならした。でも、カメラが趣味で、モデルになってと頼まれて、18歳の写真が手元に残ったのは幸運!!

(自分史2)0歳の頃から女の子には人形が与えられ、世話をするように教育されているのだ。
(自分史をHPで書こうと思ったけれど、写真をつけるのが簡単なのでFBにします)

(自分史3)前を向く私と俯向く弟…この個性を否定され、「男と女が逆だったらよかった」と幾度となく言われた。それが私の人生を決めた。
幼稚園では隣組の弟の着替えを手伝っていたらしい。世話焼きの姉と一緒では弟が自立しないと心配した母が、中学は別々にしようと企て、私は1時間かけて国立奈良女子大学文学部付属中高等学校に通うことになった。
・・・そうか・・私は元々世話焼きだったのだ・・・小学校6年間ずっと級長をさせられていたから世話係が身に付いたと思っていたけれど・・新発見!!

(自分史 大学)
1975年入学式では総長あいさつの後、赤ヘルの学生たちが演壇にならび、演説するのに驚いた。毎日授業に出ると、まず、クラス入りと称して赤ヘルの学生たちが一席話すのが日課だった。クラスの自治会役員を決めるのになかなかなり手がいなくて、時間ばかりがたつのが面倒で「私がやります」と立候補したのが事の始まり。2歳上の同級生といろんな会合に出るようになり、彼女がいろいろ物知りなのに感心しながら、赤ヘル運動の端っこに参加するようになった。
 住民が大学の研究室の毒物垂れ流しに抗議した事件を知り、愕然とし、それから水俣などの公害、スモンなどの薬害に興味をもち、反医学会総会に参加したり、全国薬学生ゼミナールや関西薬害問題研究会に出入りするようになった。同じクラスの薬学生に薬害を学ぼうと呼びかけたけれど、「薬剤師になってからでいい」と反応はなかったので、一人でチラシをまいたりして行動していた。
 真如堂脇の下宿から熊野寮に引っ越し、授業をさぼって自由を満喫しながら、勉強会などに参加していた。成人式の時は反薬害集会に参加し、造影剤の副作用の英語論文の報告をしていた。大阪環状線で「成人式なんてくだらん」と思いながら、晴れ着を眺めたことを覚えている。