尾久本土初空襲調査記録

1990年頃
下町みどりのなかまたち代表の野村圭佑さんに誘われ、遠藤さん宅の石碑を見学。
1998年
野村圭佑さんに区議会議員立候補の挨拶に行った時、尾久の原の保全活動と尾久が本土初空襲を受けた地であることを広めてほしいと依頼を受け、選挙活動にイラストを使って良いと許可をもらった。

尾久初空襲と私
Posted on 2016年5月4日 HPより
私に尾久初空襲を教えてくれたのは今は亡き野村圭佑さんだった。都内初のビオトープ(多様な生物が生息できる環境条件を備える空間)として、はらっぱとも称される都立尾久の原公園を実現した自然保護活動家として有名で、国や都の審議会委員を務めていた。
 26年前、荒川区立保育園父母の会連絡会の会長を務めていた私は、子連れで野村さんの下町みどりの仲間たちの活動や自然観察会に参加していた。17年前、区議会議員に立候補のあいさつに行った時、「尾久の原の保全と尾久初空襲の伝承に取り組んでほしい」といわれ、玄人はだしの植物画を描く野村さんのイラストを選挙リーフレットに使うことを許していただいたのだった。(都立尾久の原公園の保全のために立ち上げた尾久の原愛好会は今も自然観察会を月1回程度行っている)
 当選後すぐの一般質問で、早速、区に市民参加の平和展を行うよう提案したが、「その予定はない」との回答、、、
 そこで、3月10日の東京大空襲の前後に荒川国際平和展を開催し(実行委員会主催)、尾久初空襲にまつわる調査を行い、展示した。第一回荒川国際平和展は海老名香葉子さんの講演と東京荒川少年少女合唱隊の公演であった。また、初空襲が1942年4月18日であることにちなみ、その前後の日曜日に尾久橋のたもとで尾久初空襲被害者慰霊のつどいやイベントを行った。
 当時、尾久初空襲の復旧に関わった熊野土地区画整理組合の石碑が区の工事置き場に保管されていた。私は野村さんに連れられて30年前に組合長の遠藤栄さん宅の玄関前の石碑を見に行ったことがある。私が区議になった1999年には遠藤さんは老人ホームに入り、パチンコ関連会社に変わっていた。遠藤宅には、輪王寺の宮が泊まったという碑と初空襲の碑、二つの碑があり、近所の人が、教育委員会に碑を保存すべきではないかと問い合わせたが、史的価値がないといわれたそうだ。家の取り壊しの工事の際、尾久初空襲のみかげ石の碑は道路に打ち捨てられ、一部が割れてしまった。そこに通りかかった当時の道路課長が、工事置き場に保管したそうである。現在は、ふるさと資料館で保管されている。
 爆撃地付近で聞き取り調査を行い、鈴木元一さんから警察による「尾久付近空襲状況」をお借りし、コピーした。鈴木さんは、「遠藤宅の碑は戦後ずいぶんたってできたもので、内容もいい加減」と話し、石碑は地元住民からは無視されていた。
 2000年頃は、尾久に住む議員が「初空襲なんて聞いたことがない、うそだ」というくらい、隠されていたのである。
 当時、区が把握していた爆撃地は東尾久八丁目町会の一箇所だった。そこで、東尾久八丁目町会に慰霊の集いへの参加を呼びかけ、証言を集めようとしたが、戦争中から住んでいた人とは出会わなかった。しかし、神奈川に住んでいた被爆当時大門小4年だった小宮一郎さんに出会い、2箇所目を特定することができた。その場所が尾久橋町会内だったため、尾久橋町会にも呼びかけることにした。
 尾久橋町会から数人、毎年慰霊のつどいに参加していただくようになって〜私の記憶違い初回から参加してもらていたことを写真で確認済〜数年後、田村町会長が自宅の隣が爆心地であり、爆風で飛ばされた経験談を語ってくれた。語ることを禁じられた教えをずっと守っておられたのだった。ようやく三箇所目が特定できたのだった。
 そこから、町会として、尾久初空襲を語り継ぐ運動への取り組みが始まったのである。
 私たち、荒川国際平和展実行委員会は、3・10のイベントと4月の初空襲慰霊のつどいを毎年開催してきたが、10年目の節目に、爆心地に近い、ADEKA本社ホールで尾久初空襲を忘れないコンサートを企画した。このとき、尾久橋町会が中心となっての開催となった。 その後、町会を中心に、毎年、首都大学ホール、サンパール荒川大ホール、尾久小体育館、尾久八幡中体育館を会場に、多くの人々が集う、「尾久初空襲を忘れないコンサート」が開催されてきた。また、中学校の副読本に、中学生が町会長を訪ねて、空襲の話を聞くという設定で取り上げられた。
 そして、今年は、原中学校で、全校生徒と大門小6年、地域住民が参加して、公開授業が開催された。内容は、演劇部による副読本の朗読と尾久初空襲を語り継ぐ会による説明である。来年は第七中学校で開催すると発表された。毎年、尾久地域の子どもたちが尾久初空襲から戦争の悲惨さと平和の大切さを考える機会になれば、こんなうれしいことはない。
 今後は、語り継ぐ会の内容を深めることと、尾久地域以外の学校への平和授業の展開を模索していきたい。

①1989年4月16日新聞記事「ドゥリットル」の記録 後世に 

尾久初空襲とは

1942年4月18日、日本で初めて荒川区尾久町に米軍の爆弾が落とされた。ドーリットル空襲の初弾である。
32年前の右の新聞記事は「もう一つの東京空襲」と記していて、熊野土地区画整理組合長遠藤栄さん宅にあった石碑の当時をしのぶ事ができる、唯一の写真が掲載されている。この若者は、都立尾久の原公園ビオトープの生みの親であり、荒川グリーンエイド・フォーラム初代代表であった野村圭佑さんの薫陶を受けた若者で、私も、野村圭佑さんに連れられて、子連れで遠藤宅に石碑を見に行った事がある。そして私が22年前、立候補の挨拶に行った時、この歴史を地域史として大事にするようにと言われたのだった。

私は初空襲の体験者を探すために、区の広報ビデオで紹介されていた被弾地(3発目が落ちた場所とその後判明)の尾久八丁目町会で聞き取りを行ったが、初空襲を体験した人にも見た人にも出会えなかった。しかし、鈴木元一さんから「尾久附近空襲状況 吉田警部補」のコピーをもらうことができた。
さらに尾久橋たもとで慰霊のつどいを開催することにして「尾久初空襲慰霊のつどい」としたポスターを町会掲示板に貼らしてもらったのである。

これが、尾久初空襲という言葉が生まれた経過である。葛飾や早稲田の被害はすでに本にもなっていたが、尾久の被害を調べた本はなかったのである。

ドーリットル隊16機のうち、13機が東京、3機は名古屋、神戸を攻撃し中国大陸内部の飛行場を目指し(1機は燃料不足でウラジオストックに向かった)、大きな被害を出した。