Category Archives: 心に刻む歴史

7月7日(1937年)盧溝橋事件

 1937年7月7日、ペキン(北京)郊外の盧溝橋で、「中国側が発砲した」として日本軍は中国軍と戦いをおこした。満州事変(1931年)の後、モンゴルや華北に勢力を伸ばしていた日本軍は宣戦布告の無いまま日中戦争を始めたのである。

6月30日(1945年)花岡事件

 1945年6月30日、秋田県大館市の鹿島組(現鹿島)花岡出張所に強制連行された中国人が、酷使と虐待に耐えかねて蜂起し、多数の犠牲者が出た。
 

6月23日(1945年)沖縄戦終結

 6月23日は、沖縄守備軍牛島司令官が糸満市摩文仁で自決した日。この日で軍の組織的な抵抗は終了したことをもって、「沖縄慰霊の日」とされている。沖縄戦関係資料閲覧室http://www.okinawa-sen.or.jp/index.html
が詳しい。
 写真記録「これが沖縄戦だ」太田昌秀編著 琉球新報社 には「沖縄戦は日本軍11万人が米軍54万8千人に立ち向かい、その間に住民がはさまれた残虐極まりない戦闘であった。大本営は、沖縄を本土作戦の捨石と考えた。陸軍は、航空軍を本土に温存して、現地軍の最後のたっての要請もかたくこばみ、派遣しなかったという。・・・・牛島司令官は、第32軍の使命は本土作戦を一日も有利にすることだと説いて会議はしめくくられたという。・・・・住民の犠牲十余万人、将兵の戦死者と上回り当時の人口の3分の1にあたる」とある。

5月4日(1919年)

 五・四運動は、第一次世界大戦でのドイツの敗北に乗じて日本が得た山東半島の権益を中国に返還せよという要求がパリ平和会議(ベルサイユ)で否決されたことに憤慨して立ち上がった学生運動である。
 1915年、袁世凱政権が山東半島のドイツ権益譲渡など日本からの要求(いわゆる対華二十一ヶ条要求)を受諾した5月9日は中国では「国恥記念日」とされてきた。
 1919年5月4日、北京の天安門広場の学生デモを発端に、全国に大衆運動が広まった。中国政府もついに親日派を罷免、ベルサイユ条約の調印を拒否し、五四運動は中国での大衆抗日運動、ナショナリズム運動の始まりとして位置づけられている。
 日本の歴史教育は、近現代史がおろそかで、「よく知らない」ことが中国・韓国をはじめアジア諸国との友好を妨げている。隣人が「日本といえばこんなことがあった」と覚えていることを私も常識として、心に刻んでおきたい。
 

ドイツ・シュレーダー首相発言

 私は民主的ドイツの代表者として、虐殺された人々と、また、特に強制収容所の地獄を生き延びた皆様に対して、私の恥を表明いたします。・・・・強制収容所での悲惨と苦悶と悲嘆はこれからも決して埋め合わせることはできません。ただ、犠牲者の子孫と生存者のみなさまに一定の償いを実現することは可能であります。・・・・・現在生存しているドイツ人の圧倒的多数は、ホロコーストの罪を負ってはいません。・・・国家社会主義の戦争を民族虐殺を心に刻むことが・・・・私達の国民的アイデンティティーに属していることに変わりは全くありません。心に刻むことは、ひとつの道徳的義務であります。私達はこれにより、犠牲者、生存者、またかれら係累に対してのみ責任があるのではなく、否、私達自身にとっても責任があるのです。
2005・1.25 アウシュビッツ解放60周年記念日・国際アウシュビッツ委員会式典にて(週間金曜日2005.3.18号より)

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