京都教育大学生集団性暴力事件

 この事件を知ったのは京都地裁判決への緊急抗議声明の呼びかけに賛同したからだ。
 2009年宴会で酒に酔って抵抗できない女子学生を集団で暴行したとして、集団準強姦容疑で逮捕され不起訴となった京都教育大の男子学生4人が、無期停学処分の無効確認などを求めた訴訟で、大学側は7月29日、処分を無効などとした15日の京都地裁判決を不服として大阪高裁に控訴した。判決は当時、男子学生と女子学生との間で明確な性行為の同意があったと認定。処分を無効とした上で大学側に慰謝料計40万円の支払いを命じた。
 女子学生が、居酒屋で複数の男と性行為をすることに合意するなどということはありえない。もし万が一、あったとしたら、教育的観点から、何故そのように思うのか、質すのが、将来の教育者の態度であろう。
こんなことがまかり通る日本の司法とは何なんだ!!!
 


「京都教育大学集団準強姦容疑事件に関しての京都地裁判決に対する緊急声明」
                          2011年7月25日   
                   
                    
 2011年7月15日、京都地裁は、京都教育大学の男子学生4人が、大学より受けた無期停学処分を不当だとして訴えた訴訟について、原告側の言い分を認め、処分無効・各人10万円の慰謝料支払いを大学に命じる判決をくだしました。京都教育大学がこれらの学生に無期停学処分を下したのは、2009年宴会中に酒に酔った状態で居酒屋という公共の場において集団暴行を受けたと同大学の女子学生から被害の訴えがあり、大学として調査をおこなった結果であり、さらには男子学生たちが将来教師として児童・生徒を教育・指導する立場に立つ可能性があることを鑑みてのことでした。だからこそ、京都教育大学は、単に停学処分にするだけではなく、教員に必要な人権感覚を身につけるための更正プログラムを提供し、停学期間中も指導を続けたと報道されています。
わたしたちは、何からの形で教育に関わる者として、以下の3点について、今回の判決が及ぼす悪影響を強く憂慮しています。
1) 「被害を訴えた当事者」不在の<被害者非難>の構図について
今般の判決に関する新聞報道によれば、京都地裁(杉江佳治裁判長)は、性行為については女子学生の同意があったものとし、大学がおこなった処分は不当であると結論づけています。各紙の報道には、判決は「『(女子大学生と)明確な同意があったというべきだ』と指摘」(産経新聞、2011/07/15)、「『(性的行為には)女子学生の同意があった、本件は集団準強姦事件ではない』と認定」(毎日新聞、2011/07/15)、「『女子大学生の言動などから、当時酩酊していたとまでは言えず、明確な同意があったというべきだ』と指摘」(日経新聞、2011/07/16)と、今回の訴訟では証言台に立つことはなかった女子学生の意思についての「断定」が繰り返されています。あたかもこの事件が、女子学生の虚偽の訴えによるえん罪事件であるような印象がつくりあげられていることに懸念をおぼえます。アルコールを摂取した状態の女性(この場合女子学生)が、複数の男性と居酒屋という公共の場において性交をおこなうことについて「明確な同意」を示した(あるいは、示すことが可能だ)と判断することは、常識的に考えて、よほどの明確な根拠がないかぎり困難だと考えます。また、飲酒していたが「酩酊」ではなかったという判断についてもいかなる合理的根拠があってなされたのか、疑問です。判決文が公開されていない現時点では、どのような証拠に基づいて女子学生の「明確な同意」が認定されたのか不明ですが、<「女子学生の同意」の認定>が大きく報道されていることは、被害を訴えた女子学生の尊厳があらためて傷つけられる事態です。また、元来、性暴力の被害者は、さまざまな理由から被害を訴えることをためらいがちですが、このような判決およびその報道によって、さらにその傾向を強めることになるのではないかと憂慮しています。
2) 大学の対処の正当性について
今回の判決は、京都教育大学の対処について、「男子学生の言い分を考慮せず、合理性がない」「大学は当初から男子学生を隔離し、女性学生の修学を支援する立場を固めていた」(毎日新聞、同上記事)、「(大学は)男子学生らの言い分を考慮せず、長期にわたる著しく不利益な処分は客観的合理性がなかった」(日経新聞、同上記事)と批判しています。しかし、居酒屋の空き室を使い、見張りを立てて、複数でつぎつぎと一人の女性と性交するような行為は、教員を志す大学生として著しく不適切なことであり、その行為に対して大学が厳しい処分に値すると判断することは至極当然なことでしょう。その判断は、判決が述べるように男子学生たちが「女子学生の明確な同意」を認識するような状態が<仮に>あったとしても、それほど大きくは揺るがないものと考えます。しかも大学は、前述したように、単に厳しい処分を科すだけではなく、男子学生たちの更生をねがって、退学処分ではなく停学とし、停学期間中も指導をつづけ、教育的サポートを提供しています。また、男子学生たち個人の責任として終わるのではなく、大学の教育課程そのものを反省的に見直し、人権教育やハラスメント対策を強化するという努力もおこなっています。京都教育大学の男子学生に対する停学処分とその後の人権感覚を身につけるための更生プログラムの提供と指導は、教員養成に関わる大学としての責任を果たそうとしたものと思われます。今回の判決は、そうしたキャンパスからハラスメントや暴力を根絶しようとする大学の姿勢をまったく評価しようとしないかのように見えます。その結果、大学において、性暴力など他者の人権を侵害する行為を軽視したり容認したりするような風潮が強まることを憂慮しています。
3)被害者保護の必要性について
判決が非難している「女子学生の修学を支援する立場」を当初から大学が固めていたという点についても、ハラスメントや性暴力の被害の訴えがあった際に、まずは被害を訴えている学生を保護し、修学権の保障を考えることは、大学がとるべき対処として適切なものです。もちろん、被害の訴えのみを取り上げるのではなく、次のステップとしては、加害者であるとされる者の権利を保障する観点も含めて、大学は中立の立場から事実関係の調査を行うべきです。京都教育大学もそうした対処をしたとの主張がされています。もし、仮に京都教育大学に不十分な点があったとすれば、性暴力やハラスメント対策についてのシステムの見直し、教職員の研修、専門スタッフの雇用など、体制を充実させていくことがのぞまれます。にもかかわらず、この判決は、大学のハラスメント対策の存在そのものや、大学が積み重ねてきた努力を否定するかのように見えます。このような判決は、京都教育大学はもとより他大学のハラスメント対策を後退させかねません。これらの点を深く憂慮しています。
最後に
これからの一般市民や子ども、とりわけ教員に求められる重要な資質の一つは人権尊重の姿勢です。2010年に策定された第三次男女共同参画基本計画は、「教員養成課程における男女平等などの人権教育を促進する」(第11分野)ことの必要性を謳っています。教員を養成する大学には、学生に人権教育の機会を十分に提供し、平等・公正な社会、個人の自由や尊厳についての理解を促すだけでなく、子どもたちに対して人権教育を行う力量と姿勢をもった教員を育てる使命があることを、あらためて提起します。

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